“完全復活”キース・ジャレットのソロ・コンサート! ついにキース・ジャレットの“天才”に遭遇できた,それはそれは素ん晴らしいコンサートだった。
キース・ジャレットのコンサートはその全てがライブ・レコーディングされている。4/30の「Bunkamuraオーチャードホール」も当然のこととして「収録を行なう」旨のアナウンスがあったのでいつの日かCD発売されるやもしれない。
しかし,福岡へ帰宅して考えが揺れてきた。あの美しいピアノの響きは全国から会場へ駆けつけた熱心なキース・ジャレット・ファンだけの“宝物”にさせてほしい。決してCD発売などしないで…。思い出が風化してしまう。是非ともお蔵にしてほしい?
そう思うぐらい,4/30の「Bunkamuraオーチャードホール」でのコンサートは完璧だった。
全4回の日本公演の初日ということで,まずまずの滑り出し,というべきか,上々の滑り出し,というべきか,一番搾りの如く全てを1回で出し切った,というべきか…。
キース・ジャレットの凄まじい集中力が会場の隅々にまで伝染し,観客もキース・ジャレットの演奏に参加できていた。一生のうちに何度体験できるかというレベルの最高のコンサートだった。あの日に1人の観客としてコンサートに参加し,立ち会うことのできた幸運を噛みしめているところなのです。
と言うことで(一般に世間では「LIVEレポート」と呼ばれているが)今夜は発売前の?キース・ジャレットの新作をレビュー!
以下,アドリブログの専売特許=「キース・ジャレット SOLO 2014」の「プチ・トラック批評」で〜す。
--------------------------------------------------------------------------------------
■□■□■ 第一部 ■□■□■
【パート1】 ほのぼのとリラックスした牧歌的で,荘厳ではなく壮大系の美しいメロディー。あの夜のドラマはこの曲から始まった。キース・ジャレットのインスピレーションにゴスペルではない教会系のモチーフが感じられた。管理人好みの掴みであった。
【パート2】 やはり来た,苦手な現代音楽系。ただし徐々にジャズっぽくなっていく展開に「おっ,いつもとちょっと違う」。
【パート3】 ブルース・ナンバー。初期の『STAIRCASE』に感じの音処理で黒っぽい。
【パート4】 クラシックをベースにしたアメリカン・ポップ。『RESTORATION RUIN』なイメージでノリノリ。
【パート5】 ロマン派ではない切ないバラード。涙は落ちない感じのキース・ジャレット流の祈りである。
■□■□■ 第二部 ■□■□■
【パート6】 苦手な現代音楽系・パート2。でもやっぱりジャズっぽい香りが立ち込めていくスローな展開に軌道修正。要するにキース・ジャレットは美しいピアノの音色をホール全体に響かせたかっただけなのでは?
【パート7】 キース・ジャレットの1人トリオっぽいと思った。スイングもするがメロディーをしっかりと聞かせる即興らしからぬ構成力に唸る。
【パート8】 この曲以降,完全にキース・ジャレットにスイッチが入った。静かなコード進行からのアップダウンはビル・エヴァンスの【PEACE PIECE】を想起させてくれた。でも仕上りは【PEACE PIECE】以上のロマンティックでショパンの【別れの曲】風でもあった。ふいに悲しみの扉を開かれてしまったはずなのにラストは心が希望で満ち溢れる名曲の誕生であった。
【パート9】 美メロ・バラードの小品。キース・ジャレット自身の人生を歌にした,思い入れたっぷりな回想録のように思えた。グランドピアノの低音部と高音部を見事に語り合わせた即興の魔術師・大降臨。
■□■□■ アンコール ■□■□■
【パート10】 フリー・ジャズの鬼軍曹=セシル・テイラーに肉薄した早弾き&強靭なタッチで“喰い気味だった”会場中を一発KOの力業。
【パート11】 スロー・バラードの小品。テーマは「朝日の優しい木漏れ日」である。キラキラ&サンサンであってギラギラではない。情熱的ではないのに着実に体温が上がっていく感じ。この日一番のビタミン剤。
【パート12】 「えっ,まさか!」。耳を疑う『PARIS CONCERT 2014』のお披露目であった。ついにキース・ジャレットが眠っていた「パンドラの箱」を解き放った。あの低音部のゾクゾクとしたリズム。一気に駆け抜けては消える美メロ。起承転結が大爆発している。大噴火している。もはや息をすることさえできない,鷲掴みのインプロビゼーション。これだ。これなんだ。まだあったんだ。感動した。痺れた。時間よ止まれ。
【パート13】 またしてもスロー・バラード。こんなにもキース・ジャレットがアンコールに応えることなどかってなかったし『PARIS CONCERT 2014』でこの日のショーは完成していたはずだし,こんなにも美メロを聴かせてもらえるとは想像できない状況下でのスロー・バラードの「大博打」。キース・ジャレットは外さなかった。ラストの大勝負で勝ったのだ。どこかで聴いたようで聴いていないスタンダード・ソングを書き下ろしての終焉で終演にふさわしい完膚なきまでの指使い。
さてさて,今年のGWはネットから遮断された生活を送っていたのだが,あれま〜。キース・ジャレットの大阪公演が大変な話題となっている〜。
今回の一件はキース・ジャレットにも言い分があるでしょうですし,観客の側にも言い分があると思いますので,個人的にはノーコメントとさせていただきます。
火に油を注ぐつもりはありませんが,それでこそキース・ジャレットのソロ・コンサートの真髄。投げやりのキース・ジャレットを見られるのも,めったにない貴重な経験なのだと,ちょっぴりうらやましくも思いました。気に障ったのでしたらごめんなさい。
キース・ジャレットのコンサートはその全てがライブ・レコーディングされている。4/30の「Bunkamuraオーチャードホール」も当然のこととして「収録を行なう」旨のアナウンスがあったのでいつの日かCD発売されるやもしれない。
しかし,福岡へ帰宅して考えが揺れてきた。あの美しいピアノの響きは全国から会場へ駆けつけた熱心なキース・ジャレット・ファンだけの“宝物”にさせてほしい。決してCD発売などしないで…。思い出が風化してしまう。是非ともお蔵にしてほしい?
そう思うぐらい,4/30の「Bunkamuraオーチャードホール」でのコンサートは完璧だった。
全4回の日本公演の初日ということで,まずまずの滑り出し,というべきか,上々の滑り出し,というべきか,一番搾りの如く全てを1回で出し切った,というべきか…。
キース・ジャレットの凄まじい集中力が会場の隅々にまで伝染し,観客もキース・ジャレットの演奏に参加できていた。一生のうちに何度体験できるかというレベルの最高のコンサートだった。あの日に1人の観客としてコンサートに参加し,立ち会うことのできた幸運を噛みしめているところなのです。
と言うことで(一般に世間では「LIVEレポート」と呼ばれているが)今夜は発売前の?キース・ジャレットの新作をレビュー!
以下,アドリブログの専売特許=「キース・ジャレット SOLO 2014」の「プチ・トラック批評」で〜す。
--------------------------------------------------------------------------------------
■□■□■ 第一部 ■□■□■
【パート1】 ほのぼのとリラックスした牧歌的で,荘厳ではなく壮大系の美しいメロディー。あの夜のドラマはこの曲から始まった。キース・ジャレットのインスピレーションにゴスペルではない教会系のモチーフが感じられた。管理人好みの掴みであった。
【パート2】 やはり来た,苦手な現代音楽系。ただし徐々にジャズっぽくなっていく展開に「おっ,いつもとちょっと違う」。
【パート3】 ブルース・ナンバー。初期の『STAIRCASE』に感じの音処理で黒っぽい。
【パート4】 クラシックをベースにしたアメリカン・ポップ。『RESTORATION RUIN』なイメージでノリノリ。
【パート5】 ロマン派ではない切ないバラード。涙は落ちない感じのキース・ジャレット流の祈りである。
■□■□■ 第二部 ■□■□■
【パート6】 苦手な現代音楽系・パート2。でもやっぱりジャズっぽい香りが立ち込めていくスローな展開に軌道修正。要するにキース・ジャレットは美しいピアノの音色をホール全体に響かせたかっただけなのでは?
【パート7】 キース・ジャレットの1人トリオっぽいと思った。スイングもするがメロディーをしっかりと聞かせる即興らしからぬ構成力に唸る。
【パート8】 この曲以降,完全にキース・ジャレットにスイッチが入った。静かなコード進行からのアップダウンはビル・エヴァンスの【PEACE PIECE】を想起させてくれた。でも仕上りは【PEACE PIECE】以上のロマンティックでショパンの【別れの曲】風でもあった。ふいに悲しみの扉を開かれてしまったはずなのにラストは心が希望で満ち溢れる名曲の誕生であった。
【パート9】 美メロ・バラードの小品。キース・ジャレット自身の人生を歌にした,思い入れたっぷりな回想録のように思えた。グランドピアノの低音部と高音部を見事に語り合わせた即興の魔術師・大降臨。
■□■□■ アンコール ■□■□■
【パート10】 フリー・ジャズの鬼軍曹=セシル・テイラーに肉薄した早弾き&強靭なタッチで“喰い気味だった”会場中を一発KOの力業。
【パート11】 スロー・バラードの小品。テーマは「朝日の優しい木漏れ日」である。キラキラ&サンサンであってギラギラではない。情熱的ではないのに着実に体温が上がっていく感じ。この日一番のビタミン剤。
【パート12】 「えっ,まさか!」。耳を疑う『PARIS CONCERT 2014』のお披露目であった。ついにキース・ジャレットが眠っていた「パンドラの箱」を解き放った。あの低音部のゾクゾクとしたリズム。一気に駆け抜けては消える美メロ。起承転結が大爆発している。大噴火している。もはや息をすることさえできない,鷲掴みのインプロビゼーション。これだ。これなんだ。まだあったんだ。感動した。痺れた。時間よ止まれ。
【パート13】 またしてもスロー・バラード。こんなにもキース・ジャレットがアンコールに応えることなどかってなかったし『PARIS CONCERT 2014』でこの日のショーは完成していたはずだし,こんなにも美メロを聴かせてもらえるとは想像できない状況下でのスロー・バラードの「大博打」。キース・ジャレットは外さなかった。ラストの大勝負で勝ったのだ。どこかで聴いたようで聴いていないスタンダード・ソングを書き下ろしての終焉で終演にふさわしい完膚なきまでの指使い。
さてさて,今年のGWはネットから遮断された生活を送っていたのだが,あれま〜。キース・ジャレットの大阪公演が大変な話題となっている〜。
今回の一件はキース・ジャレットにも言い分があるでしょうですし,観客の側にも言い分があると思いますので,個人的にはノーコメントとさせていただきます。
火に油を注ぐつもりはありませんが,それでこそキース・ジャレットのソロ・コンサートの真髄。投げやりのキース・ジャレットを見られるのも,めったにない貴重な経験なのだと,ちょっぴりうらやましくも思いました。気に障ったのでしたらごめんなさい。
コメント一覧 (4)
文面に綴られた熱い思いや満足感がしっかりと伝わって来ました。まるで私自身もその場にいたかのように心を揺すられ、また感動的な喜びがありました。
それだけに、「早い拍手」つまり「早すぎる拍手」については貴兄同様、とても胸が痛みました。
今回、「言葉の表現」こそありませんが、おそらく貴兄が感じた無念さ、悔しさ、そして哀しみ……。私もまったく同じ気持ちです。
今回のような「拍手」や「咳声」などの問題は、今回の「キース・ジャレット」や「ジャズ」云々だけの問題に留まらず、「コンサート」の「聴衆」、ひいては「音楽を愛する総ての人々」に共通のテーマだと思います。
「特定の人の拍手の早さと、それに先導された会場全体の拍手の早さ」は、絶対に避けるべきです。そのため、貴兄の「次のメッセージ」に特に心が痛みました。
『……でも、あの消え入る余韻が聴き所ではないのか! こんなにもバラード・ナイトなのに台無しではなかろうか! あぁ、あの早鳴りの拍手が、キース・ジャレットの意図に反して曲を強制終了させてしまっていなければよいのだが…。』
(続く)
胸中を察し行間を読んでくださりありがとうございます。
あんなにバラード・ナイトなのに。ラストに30秒ぐらいの静寂が響けば感動が押し寄せるはずなのに。その意味ではクラシックのコンサートがうらやましく感じたのです。
個人的には,音楽は聞き手が選ぶと言うのは横暴であって,音楽は作り手が聴衆を選んでもいいはずです。
その意味で無理を承知で書きますが,キース・ジャレットのコンサートには選ばれた聴衆だけが集まってほしいのです。全員がキースの大ファンに囲まれて開かれるソロ・コンサートであれば『パリ・コンサート 2015』だって飛び出てくるはずだと思っています。
この“消え入る余韻”はとても重要ですね。「ヴァイオリン」や「ベース」などもそうですが、特に「ピアノ」は、弾き終わった後のあの“余韻”がとても大切だと思います。
“余韻”があるからこそ“余情”が生まれ、その“余情”が聴衆の感動の一部となるわけですから。と同時に“余韻”は、やはり「演奏者自身」が自分の演奏を終了させようとする“心構えへ向けての準備”を意味しているように思います。
私は「拍手のタイミング」は、ピアノの場合、「演奏者自身が最後のキータッチを終えた」だけでは、まだ早いと思います。 最低でも「演奏し終えた演奏者が、観客席の方を向いたそのとき」が必要でしょう。
それはすなわち、演奏者が「演奏終了を宣言したこと」になり、そこで初めて、拍手したり、席を立ちあがったりという「聴衆自身の行為」が赦されると思います。
それこそが、「心の底から、演奏者に対する敬愛と賛辞を示す」ことではないでしょうか。
「コンサートに参加する」ということは「聴衆」である前に、「演奏者側の一人」でもあるということを自覚しなければならないと思います。それが「音楽」や「演劇」「映画」などの「聴衆」そして「観客」としての「最低限のマナー」ではないでしょうか。いえ、それ以前に「およそ人間としての常識」と思うのですが……。
大変長くなってしまいました。しかし、この問題は「音楽」と「SOUND」と、それに関わる総ての人々の問題として、《避けて通ることはできない大切なテーマ》だと思い、私もぜひ自分のブログで採り上げてみたいと思います。
「余韻」「拍手」「聴衆としての心構え」と全てにおいて秀理さんのコメントに同意いたします。私が書き濁したことを代弁してくださっています。
そして,この流れから演劇や映画へ結び付けていく「感性創房」らしい独自の展開にアッパレです。是非,記事にしてください。お読みできる日を今から楽しみに待ちたいと思います。